時間と成長は比例しない

 文学的に生きてみよ。文学の中で文学に興じるほどあっけないことはない。だって考えてもみろ。土俵が同じなのだ。誰もが文学する世界の中で、誰もができる文学という描写を連ねるのだから。それでいても、きっと、誰と同じ物も産まれない。自己表現という世界に雁字搦めにされた文学の中では、文学こそが全てだ。

 

 地域格差を歩む。図書館なんぞ無い。古本屋も少ない。それでいて、そもそも本屋が少ない。ああ、もう少し栄えた町に住んでいたら。一つだけじゃなくて二つ路線が走っているだけでも変わっただろうに。どうしたものか。俺の中ではいつでも文学にかけたい金を交通にかけている。電車にかけている。バスにかけている。徒歩という選択肢を生む。その選択肢は金銭の余裕を産むが、時間を喰らい尽くす。文学の世界において文学に溺れた時間こそが価値なのに、そこに及ばず死んでいく。それくらいなら、俺は金をかけてしまいたい。かっこ悪いか? だろうな。それでも、俺は人生を文学に懸けたい。過去の文学に。未来の文学に。俺だけの文学に。

 


 町を歩む。生まれ故郷。毎日歩む道、から一つずれた道を。町に眠る力を、感じることができるのは、慣れていないから。それこそ全てにおいてそうなのだ。未知こそが素晴らしいのだ。感情の高ぶりを感じたいならば、一度として踏み込んだことのない領域へ腕を足を思考を伸ばせ。ただ。触れるか、掴めるか、踏み込めるか、及べるか。その行為を求めるとして、そこで必要となるのは今までの感覚、衝動、経験、思考。どれもが無いと、触れられる物も触れられない。掴めるものも掴めない。及べるところにも及べない。バランスを上手くとれ。人生は短い。深めることだけが全てでは無い。浅くも深くも広くも狭くも関係ない。大切なのは個人だ。個人が求めることが全てだ。

 

 

4年近く前の文章。それぽい。