おひさし

 色々考える。

 

人間なので。人の波に揉まれて生きているので。

 

自分が1番望んでいることがなんなのか、分からなくなる。別に間違っても働き詰めになりたくはない。それだけは確かなのだけど。

人にチャンスを与えてもらう。期待してもらう。そういうことは、とても貴重であり2度は起こり得ないこと。そう理解している。

でもそれでもあまり頑張れない。

 

期待ってほどじゃない。でも、相手方もそれなりのリスクだったりなんなりをわかった上で、私に期待してくれているわけで。

個人で掴み取った期待は、重い。重いと感じるのは自分の覚悟がないから。わかってはいるけれど。

 

根が腐っているんだ。

私は本当に何もしないで生きていきたいから。

 

でも私にチャンスをくれた、チャンスを受ける勇気をくれた人も本当はニートやりたいって言ってたので、人間そんなものなのかな、と、思える救い。

 

重い感情を向けるけど、向けた先すぐ冷めてしまう自分を理解している。

はちゃめちゃに幼稚だ。

自分を1番変えたいのは、そういう部分なのだと思う。どうしようもない部分じゃないのだから、そんなの。責任意識だろ。

 

 

自分の感情が、自分の体を置いていってしまう。最近はずっとそうだ。

 

もっと上手く生きていきたいのに。

 

 

 

 

こころをとらわれる

 人を好きになったことは、多分ない。

 人の感情には興味あっても、人に興味がないから。あまりにも共感という感情が抜けているから。

 

 でもそれでいてストーカー気質であることを理解している。知りたくなったら、とにかく知りたい。とにかく気になる。

 めちゃくちゃ危ない人種であることは理解している。

 でも直し方というか、変わり方というか、そういうものは一切わからない。人は簡単に変わらない。特に感情には起因する部分は。

 だから、好きになれないのと同等に、好きになりたくないという感情がある。

 

 芸能人を応援するのが好きだ。というのは、どうやってもある程度の距離を保たなければいけないし、保たざるを得ないから。間違ってもガチ恋勢とかではないので、好きな感情を誰かに向けたいなら芸能人が1番だ。

 身近な人は危ない。簡単に追えてしまうから。といっても恋愛感情で追った事はないんだけど。なぜか囚われてしまうだけで。

 

 というか最近は、本当に自分は人を好きになれるのか? と思っている。

 1人の時間が好きだし、自分を曝け出すのが苦手だし、相手の気持ちを慮れないし。

 人と生きることに向いてないんじゃないかって、思っている。

 好きになっても、うまく恋愛関係を続けられる気はしない。

 

 今日は調子が悪い。500字で締め。

思ったより人生難しい

 日記みたいな感覚で、でもそれでいて成長レポートにできたらいい。そういうふつかめ。

 

 昨日の話だが、添削をしてもらってる時に文章に癖があると言われた。もちろんある程度は仕方ないのかもしれないが、正直読み返して自分でも違和感があった。

 そういう、癖、というものはできるだけまっさらにしなければいけない。

 なぜなら私は作家ではないし、自我を見てほしくて文章を書いているわけではないから。

 

 できるだけ未来の人と自分に正確には伝えたい。そんな文章に、自我は不要だ。

 もし自我を持たせたなら、紛れもないマスター◯ーションなわけで。間違いなく外でやるべきではない。職業でもないのだから。

 

 ところで、わたしには伝える能力が、枯渇しているのだと思う。

 話すことも苦手なのだ。どういう風に順序立てるとか、そんなことを考える前に、人に話しかけるだけで緊張してしまうのだ。全然、伝える方法とか考えたことがない。考えられたことがない。

 でも、それ以前に頭に何もない。

 人に何か問われた時、頭が空白になってしまう。真っ白ではなくて、頭も働かせているのに、何も浮かばない。

 

 人間としての枯渇。社会人としての枯渇。学ぶことへの意欲。学びで得ることのできる知識量。

 どうしても、やはり、未熟だ。

 

 

 話は変わるが、最近とある人に、チャンスを与えてもらった。このチャンスをモノにできるかどうか、それが私の未来に大きく関わってくると思う。

 ただ、それでいたって私は色々枯渇していて、期待に応えられるかと、不安だ。

 いや、多分あまりにもペーペーなので、期待自体してないと思う。でも私はその人を裏切りたくない気持ちでいる。期待されることはまま嬉しいからだ。

 

 今まで、期待されたことはゼロではないと思う。でも、そのほとんどを自分が腐ることで潰してしまった。すぐ腐る人間であると自覚している。

 

 自分に見合ってない規模感に、期待を持ち上げられると何もできなくなってしまう。しまいそうになる。

 本当は弱音など吐かず、この時間に勉強すれば良いのだと思うが、このもやもやが付き纏うと思うと、なかなか憂鬱になる。

 こういう気持ちを切り離すにはどうすればいいのだろう。

 自信とかそういう話じゃないと思う。ただ、できるわけない、という過去が目の前に待ち構えているだけで。

 

 人が変わるのにはまぁそれなりの労力が必要で。誰かのために変わりたいと思うのは、まま健全?

 

 

1000字超えたので終わり。やらしい意味じゃないけど、BANとか怖いから伏せ字にしてみました。必要ない?

 

 

初めてブログ書きます

 

 私はあまり文章が得意な人間ではない。

 

 だが、のちの添削のことを考えずに好き勝手書くのは好きだ。好きこそ物の上手なれ、とはいうが、そうは思わない。なぜなら好きなもの何もかも上達していないからだ。

 

 確かなこととして、上手くなろうと思わなければ、何も上手くならない。だが、そのことに気づいたところで、上手くなりたいと思うほどの情熱を持つことができない。

 とにかく楽に生きたい。逃げられる時に逃げられる人生を過ごしたい。

 そんなふうに生きてきた結果、得意なことも誇れることも何もない大人になってしまった。

 でも、情熱の持ち方も分からない。ブログを始めたのはとある人の影響なのだが、その人は情熱がすごくてついていけない。いや、ついてはいける。正確にはついていく情熱がない、だ。

 野心を持て、とはその人の言葉だが、私にあるのは怠惰心だけなのだ。

 

 ただ、現状が環境的に、精神的によろしくないからとブログを始めている。僅かながらこれは野心と言えるだろうか。

 

 野心という言葉を、その人は現状を受け入れず変わりたい心を持ち行動を起こせ、という意味として使っているのだと思う。そういう意味では、野心がないとも言えないかもしれない。新しい行動を起こす気は十二分にあるからだ。だがしかし、行動を起こしたとて、起こした先に何かを得ることができなければ野心になんの意味もないのではないか。

 

 そういう意味で、私には野心がなく、成長の兆しもないのだろうと思っている。

 誇れるほどのものはなくとも、自分の好きなこととか大切にしていることとか、そういうのはだれでも持っている。と思いたい。だが私にはないのだと思う。あちこち手を出して、中途半端、何も得られず怠惰に走るからだ。

 

 好きなこと、と問われて言葉が詰まる。

 対話能力の枯渇が問題かと思いきや、そうでもない。今、好きなものは? と自身に問えば、「文章を書くこと」と答えが出る。でも、誰かに話すことはできない。

 なぜなら、下手であり、常に行なっているものでもなく、この好きを誇ってもいないから。

 結局のところ、好き、という言葉にはある程度の責任がついて回るのだと思う。ある程度の実力、ある程度の経験、ある程度の自信。わたしには、その全てが欠けている。自分でハテナがでるほど、何もかも中途半端で投げ出しているから。

 だが、それでも何かを得たいと野心を持ったつもりでブログを始めている今。経験と時間だけ逸らせてもなんの意味もないので、出来るだけ実力を付けられるよう、足掻きたいと思う。

 

 1000字を超えたのでここまで。これから頑張ります。