むつかしく考えることで生きている風を装うのはやめろ

 悪意あるタイトル。まぎれもなく自分宛である。

 

 文章を上手くなりたいと考えるなかであーでもないこーでもないと脳内でこねくり回すことで満足する回数のなんと多いことか。

 ダンスを趣味としているが、踊っているとき以外踊りたいと強く思わない自分は何なんだ一体。体を動かすことが好きなんだか嫌いなんだか知らないが、こうやって思考する時間をダンスにあてろよ。

 転職してから半年経って、別にすぐ職を移ることはないが、手に職つけたいとか資格を取りたいとか勉強したいとか仕事を頑張りたいとか。そういうことは考えるだけじゃなくて行動に移せよ。移さないからこうやって現状維持なだけの人生を送ることになってるんじゃねえのかよ。

 

 お前は本当に弱いな。って、常々。

 

 

 自分で言って自分で傷つくのなら、刃先が尖る前に努力すればいいだけなのにね。

人生における他者との共鳴

 とても久々のブログだ。書かなかった理由があるわけではなく、書く理由がなかっただけ。自分のブログがあることも忘れていたから、本当にそれだけ。

 

 今の生活は、なんだか生ぬるくて自分の安定を他者の不安定によって感じている、安心安全そのものだ。幸不幸は置いておいたとしても、この生活は自分にとって臨んだ形の一つであると思う。

 人生におけるゴールとはいったいどこなのか。死とか成功とかいろいろ意見はあると思うが、私は「安定」だと思っている。安定というか、「ここに本腰を入れて、一生ここで生きていく覚悟をした時」だと、思っている。

 結婚しかり就職しかり。安定を享受することこそが幸せだと思っている。

 

 でも、私はどこに安定を見出したいのかわかっていない。どうすればいいのか、全くわからない。

 

 私は、今は幸せではあるし、ある程度望んだ環境で働くことができている。でもそれを受けいれるべきか......。毎日のように考えあぐねている。

 正解はないけれど、一種の完成形を知っている。それは両親であり、結婚して家族を形成している。私は何の努力もなしに、その完成形の一部として収まっている。

 それでいいじゃないかと思うかもしれないが、私はいつか抜け出さなければならない。抜け出せとだれかに言われたわけでもないけど、抜け出すことを正解だと思っている。

 

 まあそれは確定として、どうやって抜け出すかがわからない。現状実家を出なければいけない理由がない。交通の便という面でも、家内の待遇の面でも、年齢もある程度まだ大丈夫だ。

 だから、少し、ゆっくり考えようとは思っている。

 

 例えば結婚。

 でも正直他者との生活に耐えられる気がしない。あまりにも精神的にも肉体的にも潔癖なので、厳しい。

 例えば就職。

 でもやりたい仕事がない。一生をかけてささげたい仕事がない。なんだか、なんか、難しい。

 

 別に生きる意味を見出したいわけでもないし、見出さなければいけないわけないし。でもなんか、なんだか、もう少し、生きることへの希望を感じたい。のだ。

マラソン計画とか

あと約45日。

全然余裕がない。なのになんかいけそうな気もしてる。それは朝早く行動した余裕がもたらす自信か?

 

まあとにかく時間はありません。

1日おきに走ろうと思っているが、ぶっちゃけ長くても3kmから5km程度になってしまう。それはもう家の立地なので贅沢は言わない。

いやまあもちろん10km走れなくはないけど。現実的な話なのでこれは諦めるとして。

 

とりあえず今日2km走る。ます。全然走りたくないけど。逃げ出したいけど。

でも走るます。

がんばれ〜

 

 

 

 

人生やばいことの連続

自分が招いたヤバいことがある。

 

実は。5月のGWにマラソン大会に出ることになっている。

だが、最近全く走っていない。

 

走りはじめたのはここ半年以内で、それ以前はシャトルランで誰より早く離脱するほど体力のないペーペーだった。

だがまあ色んな理由がありハーフマラソンを志すようになった。

 

んで、1月の末にその予行演習として10kmのマラソンに参加して見事完走したのだ。

11月の終わりに走り始めて、ちょくちょくサボりながら、MAX5kmというヤバい状態だったが、完走できた。

それがいけなかった。

 

なぜなら、それからまっったく走っていないから。やる気はあった。やる気だけはあった。

でも続かない。日数的にも距離的にも時間的にも。

 

でも大会はあることにはある。

出ないこともできるけど放り出すのは違うと言う気持ちももちろんあるし。

それに別にどうでも良くなったと言うわけでもないし…。

 

だから、走るつもりなのだ。

でも、走れる気もしないのだ。

だってもうわかる。1km走った時の息切れの仕方が半年前と同程度ってことが。

どうするんだよ、ほんと。

 

走ったらブログ書く。走らなくてもブログ書く。

ブログと並走して続けることを目標にします…。

何事も時間が解決してくれていいのか?

 ものっそい久々にブログを書いている。理由は明確。

 それは、私がブログを書く衝動となっていた人と信じられない形で疎遠になったからだ。

 私は今まで焦がれ憧れ求めていた人に、もらった力でブログを書いていた。そして、その人とのかかわりが消えてなくなった後もその力で書き続けようと思っていた。今でもその時の気持ちは思い出せるし、決して嘘ではなかった。

 なのになぜブログと距離を置いていたのか。いったいどんな別れ方をすれば、と過去の私は言うだろう。

 

 まあ、本当にひどい最後だった、としか言えない。人を信じる気持ちを信じようと思わせてくれた人だった。初めて二人きりで話しても楽しいと思った人だった。まあそれは私が陰キャすぎるだけの話でもあるけど。

 でもそんな人が本当に私の知る限りで最底辺の別れを提供してくるとは。有頂天だった時の私に言ったら笑い飛ばすだろうなと思うくらい。

 

 ちなみに今でこそ笑うけど、本当に死ぬつもりだったし、実際死にそうな生活を少しの間送ってた。まあそれくらいひどい裏切られ方。最後。多分もう二度と会わない。

 

 でも、それ、時間が解決していいのかと思うんだよな。あの頃の私とは、何もかもではないけど確実に違う自分であって。気持ちも見た目も経験も、全部更新されている。

 あの頃に戻りたいわけじゃないけど、戻ろうとしても戻れないことはもどかしい。

 

 綺麗な記憶なんだ。今でも。私が焦がれていたあの頃のあの人の言葉に、行動に、今も勇気づけられている。虚しさと同時に、ぬくもりを感じている。そんなの。

 

 不思議だ、人間は。夢を見るけどあきらめる。投げ出すけれど立ち上がる。

 それが全部、同じ人をおもって繰り返されたりもする。

 

 しょうもないな。

 

 まあ生きるしかない。それは分かってるから。全部捨てたくても捨てられないもので構成されているから。

 頑張りたくないから頑張らないけど。後悔しないのは不可能なので後悔すると思いながらだけど。生きてきます。

 ブログも別の原動力見つけて書けるように、なる。

孤独と独りを見誤るな

どうして、人ってこんなに弱いんだろう。何かに頼らないと生きていけないなら、一人にならないようにしてくれるべきだろうに。

 

 孤独に生活してきた人が、人と関わることを覚えると、どうしても依存に走ってしまう傾向があると思う。それは別に悪いこととかでもなく、どうしても仕方のない部分だ。人間の弱さは、人間が一番わかっている。その人の弱さも、その人が一番わかっている。弱いことがみじめか、当然なのかということは置いておいて、どうしても人として弱くなってしまったような気持ちは避けられない。

 それでいて、こういう孤独に生きてきた人に交流を教えるのって、大体人に囲まれて生きてきた人なのだ。そうするとどうなるかといえば、「自分にとっては特別だけど、相手にとっては大勢いるうちの一人」という状況になってしまう。

 誰も悪くない。それでいて避けられないもので。どうしたって避けられない、だって、こちらが傷つこうと、ボロボロになろうと、相手には関係ないのだから。関係ないというと無責任だが、事実人は一人では生きていない。様々な人との関わり合いで、どれもが絡まって人間模様を作り出している。それが複数であり広い人と関わるのだから、特別には程遠い、しかも年月も浅いものだからどうしたって優先順位だって下がる。

 人の感情はいつだって一方通行だ。それがいいとか悪いとかそんなのは誰かが決められることでもない。

 多分正しいのは、見返りを求めないってこと。自分が与える存在になること。押し付けることとどう差別化するのかは難しい部分だけど、でも純度100%の感情が、ひっくり返って悪になる可能性は極めて低いと思うから。

 

 生きたいように生きる。ほんと、それだけなはずなのに。

時間と成長は比例しない

 文学的に生きてみよ。文学の中で文学に興じるほどあっけないことはない。だって考えてもみろ。土俵が同じなのだ。誰もが文学する世界の中で、誰もができる文学という描写を連ねるのだから。それでいても、きっと、誰と同じ物も産まれない。自己表現という世界に雁字搦めにされた文学の中では、文学こそが全てだ。

 

 地域格差を歩む。図書館なんぞ無い。古本屋も少ない。それでいて、そもそも本屋が少ない。ああ、もう少し栄えた町に住んでいたら。一つだけじゃなくて二つ路線が走っているだけでも変わっただろうに。どうしたものか。俺の中ではいつでも文学にかけたい金を交通にかけている。電車にかけている。バスにかけている。徒歩という選択肢を生む。その選択肢は金銭の余裕を産むが、時間を喰らい尽くす。文学の世界において文学に溺れた時間こそが価値なのに、そこに及ばず死んでいく。それくらいなら、俺は金をかけてしまいたい。かっこ悪いか? だろうな。それでも、俺は人生を文学に懸けたい。過去の文学に。未来の文学に。俺だけの文学に。

 


 町を歩む。生まれ故郷。毎日歩む道、から一つずれた道を。町に眠る力を、感じることができるのは、慣れていないから。それこそ全てにおいてそうなのだ。未知こそが素晴らしいのだ。感情の高ぶりを感じたいならば、一度として踏み込んだことのない領域へ腕を足を思考を伸ばせ。ただ。触れるか、掴めるか、踏み込めるか、及べるか。その行為を求めるとして、そこで必要となるのは今までの感覚、衝動、経験、思考。どれもが無いと、触れられる物も触れられない。掴めるものも掴めない。及べるところにも及べない。バランスを上手くとれ。人生は短い。深めることだけが全てでは無い。浅くも深くも広くも狭くも関係ない。大切なのは個人だ。個人が求めることが全てだ。

 

 

4年近く前の文章。それぽい。